空間とは何か
私達は三次元空間で生きていると考えられている。
そこには縦、横、奥行きといった概念がある。
所謂立体空間だ。
しかし、よく考えると我々の視覚というのは網膜に写った二次元平面画像のはずだ。それを脳が想像力を働かせることによって立体化しているのである。
こどもは空を飛んでいる飛行機をみて、「太陽にぶつかるー」と叫ぶ。でも大人はそんなことはおこりえないと知っている。
古代の壁画には立体的な概念は全く感じられないし、あくまで平面的だ。絵画の世界では奥行きを感じさせる描写が行われるようになったのは実はそんなに昔の話ではない。また、こどもの描く絵も平面的だ。三次元感覚というのは後天的なものといえるだろう。
もし2次元の世界(これをフラットランドとする)を想定した場合、平面上にかかれた丸や四角といったフラットランドの住人はお互いを直線でしか認識できない。彼らの網膜には直線しか映らないはずだからだ。それでも今向き合っているのが丸であるとか四角であると認識する方法は、実は1次元上の三次元から見下ろさないと認識できないことになる。
つまり我々が三次元世界にいながらにしてその三次元世界を認識することは理屈上できない。それでも三次元認識を獲得できるのは実は1次元上の4次元世界から見下ろしていることになるのだ。
そして4次元世界を認識するためには、さらにその上の次元というように、どんどん上次元が存在することになる。
空間認識とは後天的であると先ほど書いたが、我々が今当たり前と思っている3D空間は単なる空間認識の一つの過程にしか過ぎないのではないだろうか。今の我々には見えないが、この世界は三次元どころではなく、無限に重なる次元で構成されているのだ。そして人間の意識の変容、進化により、より高次の次元を認識できるのようになるのではないだろうか。
そうなると今は目に見えていないものが見えるようになり、逆に今見えているものは、その絶対性を無くす。今見えているものの多くは物質だ。物質の絶対性がなくなる日が人類の進化とともにあるのかもしれない。
そこには縦、横、奥行きといった概念がある。
所謂立体空間だ。
しかし、よく考えると我々の視覚というのは網膜に写った二次元平面画像のはずだ。それを脳が想像力を働かせることによって立体化しているのである。
こどもは空を飛んでいる飛行機をみて、「太陽にぶつかるー」と叫ぶ。でも大人はそんなことはおこりえないと知っている。
古代の壁画には立体的な概念は全く感じられないし、あくまで平面的だ。絵画の世界では奥行きを感じさせる描写が行われるようになったのは実はそんなに昔の話ではない。また、こどもの描く絵も平面的だ。三次元感覚というのは後天的なものといえるだろう。
もし2次元の世界(これをフラットランドとする)を想定した場合、平面上にかかれた丸や四角といったフラットランドの住人はお互いを直線でしか認識できない。彼らの網膜には直線しか映らないはずだからだ。それでも今向き合っているのが丸であるとか四角であると認識する方法は、実は1次元上の三次元から見下ろさないと認識できないことになる。
つまり我々が三次元世界にいながらにしてその三次元世界を認識することは理屈上できない。それでも三次元認識を獲得できるのは実は1次元上の4次元世界から見下ろしていることになるのだ。
そして4次元世界を認識するためには、さらにその上の次元というように、どんどん上次元が存在することになる。
空間認識とは後天的であると先ほど書いたが、我々が今当たり前と思っている3D空間は単なる空間認識の一つの過程にしか過ぎないのではないだろうか。今の我々には見えないが、この世界は三次元どころではなく、無限に重なる次元で構成されているのだ。そして人間の意識の変容、進化により、より高次の次元を認識できるのようになるのではないだろうか。
そうなると今は目に見えていないものが見えるようになり、逆に今見えているものは、その絶対性を無くす。今見えているものの多くは物質だ。物質の絶対性がなくなる日が人類の進化とともにあるのかもしれない。
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